ーー痛みそのものの記憶自体は、いつまでたっても鮮やかなもの。それは変わらないんだよ。人であろうと場所であろうとも
石沢麻依・著『貝に続く場所にて』という作品は、李琴峰・著『彼岸花の咲く島』と合わせて”第165回芥川賞”に受賞された作品になります。石沢麻依さんにとってのデビュー作ともなるこちらの作品。2011年3月11日の東日本大震災での犠牲者への鎮魂という意味合いが強く込められたものとなります。

私もそのとき、宮城県にいました。私の実家も私自身も、幸い津波の被害からは免れましたが、そのときは身の回りで起こったことに対処することで精一杯。一時的にライフラインも絶たれ、自分たちがどう生き延びるかを考えなければならない時間が続きました。
ただ、まさにそのときにだって、甚大な津波被害は尾を引くように死者や行方不明者の数を増やしつづけていました。ニュースでは何度も何度も津波被害の映像が流れ、その度に胸が苦しくなるのと同時に「自分たちがここにいなくてよかった」という考えに及んでしまったのは正直なところです。
東日本大震災で「命を落とされた方」や「甚大な被害を受けられた方」「それなりに被害を受けられた方」「それほど・全く被害に遭われなかった方」などいろんな立場の方がいると思います。
そこにまずは、立場による心理的な隔たりが存在するように、私は感じます。そしてこの「心理的な隔たり」は被災地から近い場所にいたか、遠い場所にいたかというところにも相関すると思いますので、「心理的な隔たり」ととても近しいものとして「距離的な隔たり」が存在することになります。
そして、私たちはあれから毎年3月11日のその時間になると黙祷を行いますよね。でもだんだんとその黙祷の重みが薄れてきているように、私は正直感じています。宮城県内の企業社内であっても黙祷をしなくなったところさえあるということを、耳にしたこともあります。
「時間的な隔たり」によって、東日本大震災の実感が歴史へと置き換わっていく流れの中に私たちはいるのかもしれません。。過去に起こった、多数の死者を出しつづけた戦争も、今や戦争の”歴史”ですもんね。私に残っている東日本大震災の”実感”も、私たちの子孫に受け継がれる頃には”歴史”に変わっているのかもしれません。悲しいことに、「心理的な隔たり」や「距離的な隔たり」の大きさに比例してその流れは速くなっていくのでしょうね。
この作品は、東日本大震災とは大きな隔たりをもっていそうな、コロナ渦にあるドイツのゲッティンゲンという街が舞台となります。主人公である「私」がその街で遭遇する物や建造物の中から記憶や繋がりを呼び起こしていき、その”隔たり”を解いていくというようなあらすじとなっています。あくまでもすっごくざっくりいうとですけどね。。笑
人それぞれが必要だと願う物、もっているのが必然である物(それらをこの物語では”持物(アトリビュート)”と呼びます)を通して、風景画としてそこに実在する空間が、肖像画のような過去の記憶とのねじれのある空間へと変貌していく場面がたびたび描かれているので、たまに訳わからなくなるのですが、笑 それはもうそういうものだとして読み進めるほかありません。読んでいるうちになんとなく結びつきも見えてくるのでご安心を。
この作品の美しさは、”物”と”記憶”と”肖像画”との結びつきが修辞法を多用した文体によってすごく綺麗に描かれているところにあると、私は思うのです。和歌や詩に見られるその一文一文の卓越した表現技法がこの小説の中いっぱいに張り巡らされています。なので、たった150ページ程度の本なのですが読み応えはヘヴィ級笑 読んでる間はけっこう脳味噌フル稼働だった気がします。
このいろんな物と記憶の結びつきが相まって、東日本大震災で行方不明となった友人への鎮魂へとつながっていくその様は、感動的とも情緒的ともノスタルジーとも、うーん、なんとも表現し難い深みがあります。純文学ってやっぱりすごいです。
話は変わりますが、物の記憶や歴史をテーマに描かれた作品として、過去に紹介した谷瑞恵・著『がらくた屋と月の夜話』があります。こちらもそれぞれの人物の”持物(アトリビュート)”のような描写が見られるので、合わせて読んでみると面白いかもです。作風は全くもって違いますけど笑

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